毎日、痛くて目が覚める。
両手を上に「うーん」とか言いながらぐーっと伸ばすなんて絶対にできない。
あれができるのは幸せだ。
私にも幸せはあって、痛みが程よく身体に馴染んだら、起きてから1時間くらい経ってる、テーブルを拭いて、お湯を沸かして、コーヒーの粉をセットして、手の力があんまり無いし、いろいろ落とすから、すごくすごく気をつけてコーヒーを淹れる。
「今日もできた!」という幸せ。
コーヒーが美味しい幸せ。
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毎日、痛くて目が覚める。
両手を上に「うーん」とか言いながらぐーっと伸ばすなんて絶対にできない。
あれができるのは幸せだ。
私にも幸せはあって、痛みが程よく身体に馴染んだら、起きてから1時間くらい経ってる、テーブルを拭いて、お湯を沸かして、コーヒーの粉をセットして、手の力があんまり無いし、いろいろ落とすから、すごくすごく気をつけてコーヒーを淹れる。
「今日もできた!」という幸せ。
コーヒーが美味しい幸せ。
私の頭痛、座るというようなちょっとした動作の刺激で頭の中で「ピーン」とくるような経験のない嫌な頭痛、始まりは1週間前に絡んで側頭部を打ってから。
食欲が無くなって、時々吐いて、病院嫌いだから風邪をひいたって家族にも自分にも言い聞かせてるうちに
話したいのに言葉が出なくなった。
頭では分かってるのに。
家族が救急車を呼んだ。
そのまま入院になった。
ぼんやりした意識の中で「あー髪の毛剃ってるなぁ」
局部麻酔だったみたいで音が聞こえ「頭に穴開けてるんだ・・・」
気がつくとベッドの上だった。
その時は何日経ったのかは分からなかったけど
どうやら1週間後だった。
今度は口元に何か被せられて眠った。気持ち良く眠った。
気がつくと両手を拘束されてベッドの上だ。
意識もあんまりはっきりしない中、リウマチ がある私は手を固定されているのが痛くて「はずして、はずして」と言ってた気がする。
看護師さんの目がとどく部屋のベッドに私はいて何かをチェックしに度々看護師さんがでたり入ったりしてた。
頭に開けた穴からドレーンというらしいが、それを使って頭の中にたまった血を抜いていて、その量をチェックしていたんだという事をあとで知った。
手の拘束は頭にドレーンが入ってるから触らないためにだったんだな。
普通の病室に移動してからも、頭では言いたいことが分かっているのに話せない。
もどかしかった。
脳梗塞になった夫は、話しかけられても「わからない」みたいな顔をしてた。
身体はなんでもなさそうでそれだけは良かった。
後遺症として、高次脳機能障害、失語症だと言われた。
話の内容を理解する事が難しいというのがいちばん目立ってたな。文字は読めるし書けるし本人は言語障害があるでも無く普通に喋ってたし。
でも本は読めなかった。本の内容を理解できなかった。
車の運転も仕事も難しいと言われた。
私は私で体が悪くて家の中での移動は出来たけどまともに歩けなくて、いろいろな事が夫に頼りきりだった。
もうこのまま飲まず食わずで人生終わらせたいって思って天井を見てた。
スマホの使い方も分からなくなってた夫だったけど、LINEチャットが打てるようになったある日「嫌いにならないでくださいね」とLINEが来た。
もう10年近く経つのに、このLINEを思い出すとやっぱり泣ける。
入れ替わり立ち替わり訪ねてくる人達にも支えられた。
ネットばかり見てた。脳梗塞の後遺症の症状とか改善とか、ネットで稼ぐとか。
私は文章を書くのが好きだったし、当時はブログで稼いでいる人というのが、ちょっと検索するとブワーっと出てきて希望を見つけたような気になった。
そして、いろいろ参考にしてGoogleアドセンスを手に入れた。
だけどわたしのやる気はそこで終わっちゃったようなものだ。
夫はすごく頑張ったんだ。
無理だと言われた運転も仕事も、今できている。
ブログを始めたのには理由があった。
その日仕事から帰ってきた夫は、家の鍵をガチャガチャするばかりで中々入って来ない。
身体はいつもと変わらなかったけれど、言ってることがどうもおかしい。「手を出して」と言ったらキョトンとするばかり。もう10年くらい経つのとバタバタしてたからだろう、覚えていることがあまりない。
とにかく、すごくすごく変だった。身体は普通に動いていたから、当の本人は休めば平気と言ったけど、救急車を呼んだ。
夫は「大丈夫」と言ってたような気がする。
救急隊の方達に「なんか言ってることが変なんです」と伝えたと思う。
脳梗塞だった。
続く
私が子供の時に元気だった父が突然この世を去った。お葬式での大人たちの「かわいそうに」という言葉と顔は何十年経っても忘れられない。
感謝というより「私、かわいそうじゃないもん」と思ったのは私が捻くれているからかな。
母は私と妹を両腕に抱いて「なんで私たちを置いて行ったの」と言って号泣した。
私の記憶はここから始まっていて、それ以前の事はほぼ記憶にない。父は30代だった。
長生きは呪い
過去たちを拾い集めて眺めればうっすら甘い無花果の味
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